《解体小説》内装解体編・第七章
第七章 「大切なもの」
最終的に、鏡の一件(指示が書面で残っていないとして、工事金額から一万円値引きという対応で片付けられた)を除いては、工事は大きなトラブルもなく終了した。
退去・引渡しも滞りなく淡々と進み、終わりは案外あっけないものなんだなぁ……と、空っぽになった店舗を一人で眺めていた。
契約時に退去する時のことまで頭が回っていれば、結果は変わっていたんだろうか。
結局、槙田の最後の給料も普段と変わらない額面でしか渡してやれなかった。
今となっては考えても仕方のないことだが、必要以上にかかった費用、大切な什器の紛失――おそらく破損だろうが――、最後に残る虚無感。
どれか一つは経験せずに済んだのではないかと悔やんでしまう自分がいた。
開栓前の缶コーヒーを手のひらで弄んでいると、ポケットで携帯が震えた。
槙田からの着信だ。
「もしもし?」
「槙田です、お疲れ様です。今日、引渡しの日でしたよね?」
「そう。さっきちょうど終えて、今その美容室跡に一人で座ってるよ」
「何悲しいこと言ってるんですか。空っぽになってすっきりしたら晩ご飯奢ってくれる約束でしたよね?」
「そういうことだけよく覚えてるよなぁ、お前は。 ……まさか、今からか?」
「……? 今日じゃないんですか?」
相変わらず減らず口を叩く槙田だったが、彼とのやり取りで少しだけ虚無感が拭われたような気がした。
「まあ、約束は約束だからな。どこでも連れて行ってやるよ。何が食いたい?」
「そうですね……。 ――あ、そうだ戸坂さん」
「ん? 何だ?」
「再就職先、まだ見つかってないって言ってましたよね?」
「ああ、まだ何も決めてないけど。何で今それを?」
「実は年明けから働くサロンの店長が、まだアシスタントだった頃の戸坂さんを知ってるみたいで。『今こんなことになってるんですよ』って話したら、じゃあ一回連れて来てくれないか、ということになりまして」
「こんなことって何だよ、お前。……しかし、そうか。一応気にかけていてくれたんだな」
「戸坂さんのことだから、色々すっ飛ばしてまた無謀に店始めようとするんじゃないかと思って。それを止められたら、ぐらいの気持ちで誘ってみたんですけど……いかがですか?」
「よく言うよ。そんな大金が手元に残ってると思うか? まあでも、正直すごく有難いよ。まさか槙田がそんな風に気遣ってくれてるとは思わなかった」
「……職場に戸坂さんみたいな人が居てくれると助かるんですよ。こう見えても俺、結構人見知り激しいんで」
全く予想していなかった言葉に声が裏返りそうになるのを堪えつつ、心にじわりと温かいものが広がるのを感じていた。
店を失った空しさは、いつの間にかどこかへ消え去ってしまったように思えた。
今日は奮発して、缶コーヒーの代わりに高級なコーヒーショップにでも連れて行ってやろうか――。
ステーキハウスか焼肉屋あたりを期待しているだろう槙田が面食らう所を想像すると、無意識のうちに頬が緩んでいた。
今日だけは、あいつに何でも好きな物を奢ってやろう。